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執筆者の写真kampo shinsendo

中医火神派 李可老中医医案翻訳 その27

李老中医 危急重症難病治療経験


その27



 二、無熱驚風が痿となる



  温文祥の幼女、7歳。1980年5月28日夜中2時、突然手足ひきつり体を仰け反らせ、歯を食いしばって両目は吊りあがり、一回の発作が約5分間続いた。病が起きてから下肢が痿となり、両足で立ち上がることができず立とうとするとつまずいてひっくり返った。入我院小児内科で3日観察治療するも無効。破傷風を疑うが調べても外傷の痕跡はなく、脳や脊髄の病変を疑い急ぎ晋中二院へ転院治療すること3日効果なく、更に頻繁に発作を起こし何回も窒息状態が発生した。会診の結果、本病は大脳酸素不足の時間が長すぎて、病状は危急で救うことがたやすくないと認めた。即ち治療して治っても痴呆となることが免れられず、転院を意見される。この子の家族は絶望の下、連夜霊石に急いで引き返し、人事を尽くすため最後の診察に余を呼び迎えた。患者を診ると気息は微弱、冷や汗は滴り顔色は萎黄で艶がなく、唇の色は青味がかり精神はぐったりして元気なくぼんやりして、二便は失禁し首の後部は力なく左右に倒れた。呼べば目覚めるが両目は虚ろで、手足四肢は震えが止まらない、約10分に一度大発作が起こり、発作の時は体が海老のように反り返り、呼吸は止まって脈象は模湖として微弱。尋ねると生後に乳が出ず、自らも幼い時から体が弱く病気がちだった。明らかに先天不足・後天失調と繋がりがあり脾腎両虚である。腎は骨を主どり髄を生じ脳は髄海であり、腎が虚せば精神は怯えて動作が強くできず、脾は四肢を主どり脾気が虚せば四肢末端まで達しないので、痿弱で立ち上がることができない;病は夜子の刻に発して営衛不固であるところに急激に寒邪を感じ、寒は収引を主どるので頻繁なひきつけが止まらない;まして10日も重病で小児の臓器は弱まり気血が殆ど消耗し尽くし、大汗が止まらず時々虚脱しそうになる;天柱骨は倒れ二便は失禁し、腎気は敗滅し死証となっている。ただ気血を俊補して暴脱を救うしかない。まず高麗参の粉5g、麝香0.3gを服用させるように命じ、呼吸衰弱を救い痙攣を止める。服用後20分でひきつけは止み、精神は清らかに転じた。そこで詰まりを取り除く一方:



  生黄耆100g、山茱茰肉90g、当帰15g、高麗参15g(別にとろ火でゆっくり煮る)、附子10g、生竜骨牡蠣粉各30g、活磁石30g、白芍15g、亀鹿二膠各10g(溶かしてから混入)、腎四味120g、炙甘草15g、麝香0.15g(分けて冲服)、鮮生姜5片、大棗10枚、連皮胡桃4枚(打ち砕く)。


  


  煎じて濃汁500mlを取り、5回に分けて2時間に1回服用。


  


  次の日に再診すると、ひきつけは12時間以内に収まり、汗は退き呼吸も整って食事も開始された。上方を少なくして又6剤を服用させて治った。本方は当帰補血湯の黄耆を多量に用い、参附龍牡救逆湯に上下吸納作用の活磁石を加えたものを合わせ、張錫純氏の来复湯の救脱も合わせ、更に血肉有情の品の補五臓、腎気を鼓舞する腎四味を加えたものである。小量の麝香は脳の酸欠を救い、呼吸中枢を振奮させ窒息を解き、痙攣を止め、無論どんな閉脱にも卓効があり且つ小児の知力を正常に保ちながら治癒させる。余は数十年にわたり上方の加減で、各種原因によって引き起こされた小児慢性脾風証を数え切れないほど治療してきたが、後遺症が出たものは一例もない。古代医藉で論じられている“死証”は、実はそのようなことはない。三四を生かすべく救うことに全力を尽くし、できなければ不治となすしかない。もし虚名を保ち救わず見殺しにしたら、吾輩の天職に傷がつくこととなる。


                            続く

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